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- 一方、ダニエル・ブーンらが初めてケンタッキーに造ったブーンズボロ砦の入植者に対しては、ショーニー族、デラウェア族、ミンゴ族、およびチェロキー族が、ブーンの息子を含む偵察と食糧探しの集団に攻撃をかけたことから、ダンモアの戦争 (1773年-1774年)が始まった。 1年後の1775年、リチャード・ヘンダーソンとブーンに導かれたノースカロライナの土地投機家の1隊が、シカモア・ショールズで、オーバーヒル・チェロキーの指導者とワトーガ条約の交渉を行った。その種族の酋長はオコノストタとアタクラクラであり、ケンタッキーの土地に対するチェロキー族の領有権主張を取り下げ、ショーニー族やチカソー族のような他の部族による領有権主張も無視して、推測するところではトランシルバニア土地会社に土地を売り渡していた。グレートアイランド集落の酋長でアタクラクラの息子のドラッギング・カヌーはこの取扱いを拒否し、ノースカロライナの男性達に、「お前達は晴れた土地を買ったが、その上には雲が掛かっている。そこに入植すれば暗く血塗られたものになるだろう」と伝えた。ワトーガ条約はバージニアとノースカロライナの知事によって直ぐに拒絶され、ヘンダーソンは捕まることを恐れて逃げ出さなければならなかった。 1776年、デトロイトのイギリス知事ヘンリー・ハミルトンの要請もあって、ショーニー族酋長コーンズトークは、北部から南部までのインディアン種族の代表を連れて、チェロキー族指導者とチョタ集落で会い、ケンタッキーに無断で入植していた者達に対する協働行動を呼びかけた。コーンズトークはその演説の最後にその「戦いの帯」を差し出し、ドラッギング・カヌーがチルハウイー集落のアブラハムと共に受け取った。ドラッギング・カヌーはオタワ族とイロコイ族からも帯を受け取り、チョタのレイブンはデラウェア族から帯を受け取った。 攻撃は3つの部隊に分かれて行うように作戦が立てられた。ノースカロライナの諸部族がサウスカロライナへ、サウスカロライナ西部と北部ジョージアからジョージアへ、リトルテネシー川とハイワシー川からバージニアとノースカロライナへというものだった。しかし、無断入植者達はチョタからやってきた旅人に前もって警告を受けていた。その警告はチェロキー族の指導者に与えられる肩書き「ビラブド・ウーマン」(Beloved Woman)であるナンシー・ウォードから発せられていた。この裏切りがあって、チェロキー族の攻撃は悲惨なものとなり、ドラッギング・カヌーは脚を銃弾で粉々に打ち砕かれ、弟のリトルオウルは11発も銃弾を受けたが奇跡的に命を取り留めた。 その後の植民地からの外為 は素早く圧倒的なものであった。ノースカロライナは2,400名の民兵を送り、オコノフティー川やタカセギー川、およびリトルテネシー川やハイワシー川の水源地帯を隈無く捜索した。サウスカロライナはサバンナ川に1,800名を送り、ジョージアはチャタフーチー川とツガルー川に200名を派遣した。これらの部隊は50以上の集落を破壊し、家や食料を焼き、果樹園を壊し、家畜を殺し、さらに数百名のインディアンを殺すと共に生き残った者は奴隷競売台に送った。 一方でバージニアはノースカロライナの外為 と共にウィリアム・クリスチャンの指揮で大部隊をリトルテネシー川下流に派遣した。ドラッギング・カヌーは女子供、老人をハイワシー川から待避させ、集落を焼き、フレンチ・ブロード川でバージニア兵を待ち伏せしようと考えたが、オコノストタとアタクラクラそれに他の年取った首長達がそのやり方に反対した。 ドラッギング・カヌーとオステナコを含む指導者達は、周辺の心を同じくするチェロキー族を寄せ集め、今日のテネシー州チャタヌーガに移住した。このためにクリスチャンの部隊はグレートアイランドやシティコ、テリコなどの集落が打ち棄てられ年老いた酋長達だけが残っているのを見つけた。クリスチャンは3つの放棄された集落を燃やすだけでその作戦を終えた。 アレクサンダー・キャメロンの忠告に従って、チェロキー族はグレート・インディアン・ウォーパスがチカマウガ川を横切る場所にチカマウガの集落を造った。ドラッギング・カヌーもそこに住んだので、その一派のことを白人は「チカマウガ」と呼んだ。 イギリスの宣教師ジョン・マクドナルドがチカマウガとは川を隔てた所に以前から住み交易所を開いており、西フロリダの首都ペンサコーラにいるジョン・スチュアートの弟ヘンリー・スチュアートと連絡を保っていた。副監察官でありドラッギング・カヌーの血をわけたくりっく365 であるアレクサンダー・キャメロンがマクドナルドを伴ってチカマウガを訪れたが、後にイギリスの利益を代表するためにアッパー・マスコギーの領地に送られた。 チカマウガの集落に加えて、反体制派のチェロキー族がチカマウガ川の上下流に3つの集落を築いた。他にも多くの集落ができたが、そのチェロキー族も他のチェロキー族も自分達のことをチェロキー族以外の何者でもないと考えていたことは重要である。 チカマウガ・チェロキー族が使った土地は、かってマスコギー族が集落を構えていた場所であり、チェロキー族の伝説に従えば、1755年のタリワの戦い後にチェロキーの持ち物となっていた。しかし、マスコギー族は実際にはチェロキー族との間に緩衝地帯をおくため、もっと早くにその土地を離れていた。カロライナ植民地が1600年代遅くに交易を始めたとき、チェロキー族の最西端の集落は、双子の集落グレート・テリコとチャツーガであった。チェロキー族がクーサワッティーと呼ぶ集落は1700年代初期にチェロキー族が所有していたが、その後放棄された。この土地は1758年にマスコギー族がビッグ・モーターという指導者のもとで再度領有し、フレンチ・インディアン戦争の間、グレート・テリコを中心とする親フランスチェロキー族を支援したことがもとで、マスコギー族、チェロキー族、ショーニー族、チカソー族およびカトーバ族の同盟の踏み台となった。ビッグ・モーターは戦争が公式に終わった翌年にマスコギー族の大酋長になった。 1777年、チェロキー族の元の地に残っていたチェロキー族はジョージアやサウスカロライナとデューイット・コーナーの条約を、またバージニアやノースカロライナとヘンリー砦の条約を結び、戦いの鉾を納めることにより、見返りに攻撃から守って貰うことになった。しかし、不法な入植者からの攻撃を止めることもできず、その土地の浸食も止められなかった。実際には戦争を止めてサウスカロライナの土地を諦めることも要求された。 多くのチェロキー族はその土地に入ってくるワラント 開拓者に不満を抱き、チカマウガに同調してドラッギング・カヌーの追従者に加わるようになった。これに加えてチカマウガの近くのチェロキー族も幾つかの行動に加わり、デューイット・コーナーの条約でサウスカロライナの家を追われた者も加わった。チカマウガ川上流などに住んでいたユチ族も支援してくるようになった。 チカマウガ・チェロキー族の主な攻撃目標は、ワトーガ川などの入植者と、テネシー川沿いに旅する集団であった。しかし、バージニア、カロライナおよびジョージアを攻撃目標から外したという訳ではなかった。さらにバージニア西部、ケンタッキーおよびオハイオ領土にも攻撃を仕掛けた。 1778年から1779年にかけて、ジョージアのサバンナとオーガスタをイギリス軍が占領し、イギリス軍から弾薬の補給を受けていたドラッギング・カヌーの部隊はサウスカロライナやジョージアの内陸部を支配することが可能になった。 1779年の初め、バージニアのジェイムズ・ロバートソンが、チカマウガがホルストン地域の攻撃に向かっているというチョタからの警告を受けた。これに反応して、ロバートソンはエバン・シェルビーとジョン・モンゴメリーに反撃を命じ、チカマウガ地区の11の集落を破壊し、食料供給も絶った。この間にドラッギング・カヌーとジョン・マクドナルドはその部隊と50名の王党派レンジャーズを率いてジョージアとサウスカロライナを攻撃した。 集落が破壊されたことを聞いて不動産投資 チカマウガに代表を派遣した。ドラッギング・カヌー達も集落に戻って人々が戦う意志を失っていないか確認した。ドラッギング・カヌーは1776年にチョタを訪れた代表団から受け取った戦いの帯を持ち出し、「我々は征服されたわけではない」と宣言した。同盟を確保するために、ドラッギング・カヌーは100人近い戦士を北に派遣したが、ショーニー族も応じた。チカマウガの集落は直ぐに再建され、住人も戻った。ドラッギング・カヌーはシェルビーの遠征隊に報復するために、ノースカロライナとバージニアの辺境開拓者を襲った。 チカソー族も、ジョージ・ロジャース・クラークの200名以上の遠征隊がジェファーソン砦を築きオハイオ河口近くの入植地を造った時に戦争に荷担した。チカソー族は入植地を破壊し、砦を包囲し、またケンタッキーの辺境を襲い始めた。 その年遅く、ロバートソンとジョン・ドネルソンはこの地域を旅し、カンバーランド川沿いのフレンチ・ソルト・リックにナッシュボロ砦を築いた。カンバーランド地域では初めての入植地となり、周辺のあらゆるインディアン種族の攻撃目標となった。 1780年初め、ドネルソンは家族を含む1隊と共にテネシー川を下り、カンバーランドの河口を横切ってナッシュボロ砦を目指した。最終的に目的地には着くが、途中でタスケギー・アイランドとマッスル・ショールズで待ち伏せを受けた。 その夏、新しいイギリスのインディアン監察官トマス・ブラウンは、チカマウガ・チェロキー族やマスコギー族と協議し共同して攻撃にあたる方法を探ったが、それらの作戦は、ブラウンの本部があるオーガスタをアメリカ軍が最奪取しようとしたことで後手に回った。チカマウガの戦士や他にも応援を得て、アメリカ軍の動きを阻止し、ブラウンの東フロリダレンジャーズは、ジョン・セビアの支配下にあるイライジャ・クラークの部隊を追って、途中でアメリカ側の入植地を徹底的に破壊した。この行動がキングスマウンテンの戦いの引き金になった。パトリック・ファーガソンの率いる王党派民兵がクラーク隊を包囲しようとして、セビアとウィリアム・キャンベルの指揮するオーバーマウンテン・マン900名に敗北を喫した。 バージニアの知事トマス・ジェファーソンは、セビアの指揮で700名のバージニア・ノースカロライナ連合部隊を1780年12月にチカマウガに送った。この部隊はボイズクリークでチェロキー族の一隊と遭遇し戦闘した後に、アーサー・キャンベルとジョセフ・マーチンの部隊と合流し、リトルテネシー川やハイワシー川一帯の17集落を焼き払った。この地域の指導者は暫くは攻撃を控えていたが、他の地域の部族が開拓者に対する攻撃を続けた。