- 気配
- 1781年までに、ドラッギング・カヌーは元のチェロキー族集落の者やマスコギー族に対する働きかけを続けた。チカソー族、ショーニー族およびデラウェア族は繰り返しカンバーランドの開拓者を襲った。チカソー族がカンバーランドを襲った3ヶ月後、その年の4月に、チカマウガの最初の攻撃があり、ブラフの戦いとして知られるようになった。 その年の秋、イギリス軍が策謀してある種のクーデターを起こし、より平和的であったオコノストタの代わりにレイブンをオーバーヒル・チェロキーの主要な指導者とした。その後数年間オーバーヒル・チェロキー族は公然とドラッギング・カヌーとそのチカマウガ・チェロキー族を支援するようになった。しかし、その後はまた、他の指導者が平和的な指導者オールド・タッセルを選び、ドラッギング・カヌーに対する支援は水面下に沈んだ。 1782年、再びFX の遠征隊がチカマウガを破壊しその周辺の集落も破壊した。この時は、ドラッギング・カヌーは集落を再建せずに西方へ移動し、自然の要害になっていた所にファイブ・ローワー・タウンズを築いた。 ファイブ・ローワー・タウンズとは、ドラッギング・カヌーが本拠を置くランニング・ウォーター、ニッカジャック、ロングアイランド、クロウタウンおよびルックアウト・マウンテンの5集落であった。少数の戦士の1隊がタスケギー・アイランド集落を再占領して見張り所とし、開拓地に対する侵略の警告とした。 この動きはマスコギー族領地の周縁部であったので、ドラッギング・カヌーは前もってリトルオウル以下の代表をマスコギー族の酋長アレクサンダー・マギリブレーの下に送り許可を求めていた。チカマウガが本拠を移したので、イギリスの代表であるキャメロンとマクドナルドもランニング・ウォーターを南東部の活動拠点とした。一方、トマス・ブラウンはアメリカ側に寝返って、チカソー族に対するアメリカの代理人として西テネシーに住み、アメリカとスペインを戦わせようとしていたが、イギリスにはほとんど興味がなかった。ドラッギング・カヌーのもう一人の兄弟タートル・アットホームが70名程の戦士を連れて北に行き、ショーニー族と共に戦った。 チカマウガ・チェロキー族のもとには、他のチェロキーや逃亡奴隷、王党派の白人、マスコギー族、コウシャッタ族、ナチェズ族などのインディアン、さらにスペイン人、フランス人、アイルランド人、ドイツ人まで加わってきた。チカマウガの集落はウィルスタウンなどのアラバマまで広範囲に膨れ上がった。この膨張はセビアなどの破壊活動から逃れて北ジョージアから流入したチェロキー族によるところが大きかった。 他にも同盟インディアンの集落が日経225 のコールドウォーター・クリーク河口にできた。そこはテネシー川渓谷にあってやはり天然の要害であった。このインディアンはワバシュ川のフランス人交易業者から武器や物資の補給を受けていた。 ドラッギング・カヌーは、自分達だけでは戦争を続けられないと悟り、多くのインディアン種族が孤立しているよりも、大同盟を作ってアメリカに対抗するしかないと思った。マギリブレーとそのマスコギー族との連携を強めていく一方で、戦士を送ってショーニー族、チョクトー族およびデラウェア族と共に戦いを続けた。 1783年、ドラッギング・カヌーは東フロリダの首都セントオーガスティンに赴き、南部と北部の種族指導者を集めてアメリカに対抗するインディアン同盟を呼びかけた。その後数ヶ月もかけて部族間委員会を開催したが、パリ条約の調印によって同盟の計画は切り上げられた。 パリ条約の後、チカマウガ・チェロキー族はペンサコーラやモビールを通じて交易のあったスペインの支援を求めた。これは、ニューオーリンズにいたスペインピン領ルイジアナの知事がイギリスの敗退に乗じて港を確保していたからである。ドラッギング・カヌーはデトロイトのイギリス知事アレクサンダー・マッキーとの連絡を保っていた。しかし、チカソー族はアメリカ合衆国との間に停戦条約を結び、その後は二度と反旗を翻すことがなかった。 チェロキー族の3集団、アッパー、ヒル、バレーも新しい合衆国政府に脅迫されて1785年のホープウェル条約を結び、白人の開拓地がホルストンやフレンチ・ブロードまで拡がってきた。条約に署名した者は、自分達の土地がそれ以上の侵略から守られるものと思っていたが、そうではなかった。アメリカはチカマウガ・チェロキー族やマスコギー族の繰り返される攻撃に対抗して中部テネシーに軍隊を派遣してきた。 休戦中の1788年にフランクリン国(後のテネシー州)に大使としてきていた2人の酋長オールド・タッセルとアブラハムが殺害され、チェロキー族は怒ってその後数ヶ月間敵対行動を続けた。特にオールド・タッセルの弟ダブルヘッドが激怒した。ドラッギング・カヌーはウスタナリ集落で委員会を招集し事の重大さを議論した。 アメリカの民兵による懲罰的な攻撃が続いた。1788年、投資信託 がノースカロライナでバレー・チェロキー族の集落を破壊した。ハイワシー川のウスタリ集落では、住民の逃亡を助けるために残されたボブ・ベンジに率いられたチカマウガ戦士によって、村を空にされた。セビアの部隊が逃げる住民を追ったが、バレー川の河口でベンジの部隊に待ち伏せを食った。セビアの部隊はクータ・クルーチー集落まで行ってトウモロコシ畑を焼き払ったが、ジョン・ワッツの率いる400名の戦士に追い払われた。 その夏、ジョセフ・マーチンが500名の部隊と共にチカマウガ地域に入り、カンバーランド山の裾を通ってファイブ・ローワー・タウンズへの侵攻を目指した。マーチンは分遣隊を送ってルックアウト山の麓の道を確保しようとしたが、ドラッギング・カヌーの戦士によって阻止された。その後セビアはホワイト砦(現在のノックスビル)まで撤退した。 1789年早くに、有名なブルージャケットの代理の指導者で後の指導者テカムセの兄にあたるチクシカに率いられたショーニー族の1隊が北からやってきた。チクシカ隊はランニング・ウォーターを基地として、チカマウガの戦士が行う開拓者の襲撃などに行動を共にした。その行動の一つでチクシカが戦死し、テカムセが小さなショーニー族部隊の指導者となったので戦争の指導者として最初の経験となった。テカムセの部隊は1790年遅くまで滞在した後、北に帰った。 1791年の初め、ベンジとその弟ザ・テイルはウィルスタウンを基地として東テネシー、南西バージニアおよびケンタッキーの開拓者に対する攻撃を始め、しばしばコールドウォーターのダブルヘッドの隊とも行動を共にした。ベンジは辺境で最も恐れられる戦士になった。ダブルヘッドばかりではなく、ショーニー族、マスコギー族およびアメリカとの条約に従わなかったチカソー族が加わった。 1791年に締結されたホルストン条約では、外国為替証拠金取引 政府が不法な入植を止めることも引き戻すこともできないと分かったので、休戦を続ける見返りにさらにアッパー・チェロキーの土地を要求してきた。しかしこれはチェロキー族の主権を保証するように見えたので、アッパー・チェロキーの酋長達に州と同じ扱いを受けるものと信じさせた。この時、チカマウガ・チェロキー族もフィラデルフィアでの会談に代表としてブラッディ・フェローを送ったが、ブラッディ・フェローが抗議した多くの問題のためにその条約を受け入れなかった。 その年の夏、ドラッギング・カヌーの弟リトルオウルが指揮するチカマウガ・チェロキー族の小さな部隊が北に旅して、北西インディアン戦争を戦っているインディアンの指導者に会った。ショーニー族のブルージャケットやマイアミ族のリトルタートルであった。リトルオウルががそこにいる間に、ランニング・ウォーターに、北西部領土の知事アーサー・セントクレアが北のインディアン同盟に対する攻撃を計画しているという伝言がきた。ドラッギング・カヌーは資産運用 のバジャーに30名の最強の戦士隊を付けて北に送り、ワバシュの戦いに参加して決定的な勝利を挙げた。 この戦いの後、リトルオウル達兄弟は、連れて行った戦士のほとんどを伴って帰還した。 北部での勝利の報せに刺激されたドラッギング・カヌーは、北部でブルージャケットやリトルタートルがやったように、近くの大きな種族を尋ねてインディアンを束ねるための行動に移った。マスコギー族やチョクトー族は応じたが、西テネシーのチカソー族は拒否した。ドラッギング・カヌーが帰還した日は、ザ・グラスとタートル・アットホームがケンタッキーのカンバーランドで開拓者を襲って帰還した日と重なり、ルックアウト・マウンテン集落で徹夜の祝が催され、栄誉を称えてイーグル・ダンスが披露された。 翌朝、1792年3月1日、ドラッギング・カヌーは死んだ。栄誉の葬列がランニング・ウォーターに彼の体を運び、そこで埋葬された。ドラッギング・カヌーの死の時まで、チカマウガ・チェロキー族の抵抗は開拓者からも、チェロキー族の他の集団からも嫌々ながらの尊敬を得ていた。翌年にウスタナリ集落で開催されたアッパー・チェロキー族の通常委員会の席で、ブラック・フォックスによって追悼された。