気配値
ドラッギング・カヌーの後継者はジョン・ワッツとなり、他にブラッディ・フェローやダブルヘッドと共に、ドラッギング・カヌーの政策であったインディアン同盟を継続した。これにはマギリブレーと同意した小要塞を作って戦士達の拠点にする計画も含まれていた。ワッツは、同盟マスコギー族やペンサコーラにいるスペイン領西フロリダ知事のアルトゥーロ・オニールと連携するために、作戦基地をウィルスタウンに移した。当時のインディアン監察官ジョン・マクドナルドは、スペインの補給線に近いターキータウンに、助手のダニエル・ロスやその家族共々移った。 1792年9月、ワッツはチェロキーとマスコギーの協同で騎馬の分隊を含む部隊を組織し、カンバーランド地方に大規模な作戦を展開した。これは3つの部隊により構成された。ターロンテスキーはケンタッキーの道路を、ミドル・ストライカーはウォルトンの道路を、ワッツ自身が280名のチカマウガ、ショーニーおよびマスコギーの戦士と騎兵からなる主部隊を率いて、ブキャナンズ・ステーションとして知られるカンバーランドの開拓地を襲うものだった。この作戦でマスコギーのタロティスキーとドラッギング・カヌーの弟リトルオウルが戦死した。その報復のため、ベンジ、ダブルヘッドおよびその弟のパンプキン・ボーイが南西ケンタッキーを襲い、その中で殺したばかりの敵兵を食べるということがあった。一方、マスコギー族はカンバーランドの攻撃を、規模も頻度も拡大して行った。 1793年、ショーニー族の代表が、北方でセントクレアの軍隊に加わったチカソー族を罰するために、マスコギー族とチョクトー族を訪問する途中でウスタナリ集落に立ち寄った後、ワッツは当時の南西部領土首都のノックスビルへ外交使節を送り、ウィリアム・ブラウント知事と休戦条件を話し合わせた。しかし、その代表団が首都に到着する前に民兵に襲われ、ハンギング・モーが負傷し、その妻や娘などが殺された。 ワッツはその地域ではこれまでの不動産投資 となる1,000名以上の部隊を組織し、ホルストンを襲い、ノックスビルへの攻撃を目指した。その途中で、チェロキー族の指導者達が協議を始め、ノックスビルの男性のみを殺害するか、全ての住人を殺害すべきかが議論になった。ジェイムズ・バンは男性のみ、ダブルヘッドは全員を主張した。更に進んで、部隊はキャベッツ・ステーションという小さな開拓地に来た。その場所を包囲した後、ベンジが住人と交渉し、降伏すれば命を救うということになった。しかし、開拓者達が徒歩で出てくると、ダブルヘッドの部隊が彼らを殺し始め、ベンジが止めても聞かなかった。この時ワッツが中に入って一人の少年を救い、バンに預けた。しかし、議論が白熱する中で、ダブルヘッドは少年を捕まえて殺した。このことで、ダブルヘッドは「ベビーキラー」と呼ばれるようになった。このことが19世紀初めのチェロキー族の政策を巡る長い不和の始まりとなり、1807年にバンの命令でダブルヘッドが死ぬまで続いた。この時もチェロキー族の間で熱心な議論が交わされ、商品先物取引 は部隊が分裂して南に戻ることになった。セビアが反撃して、ウスタナリ集落を抑えた。このときは斥候隊との戦闘以外は何も起こらなかった。 1794年夏、ホワイトマンキラーとザ・ボウルに率いられたチカマウガ・チェロキー族の1隊がウィリアム・スコット以下の部隊を捕まえ、白人の通行人を殺し、物資を略取し、奴隷を捕虜にした。この後、ザ・ボウルとその戦士達は西へ移動し、ミシシッピ川を越えてセントフランシス川まで行って定住した。これはチェロキー族の大きな集団が初めてミシシッピ川を越えて定住した例となった。 その年の秋、メロ地区(カンバーランド)のロバートソンCFD に宛ててトマス・ブラウンが伝言を送り、マスコギー族とチェロキー族の1隊がすべての川沿いの襲撃を始めようとしていると伝えた。これに対応して、ロバートソンはジェイムズ・オーレ少佐に命じ、合衆国正規兵とメロ民兵およびケンタッキー志願兵の部隊をファイブ・ローワー・タウンズに送った。この部隊は警告無しでニカジャック集落を襲い、平和的な酋長ザ・ブレスを含む多くの住人を殺害した。その住居に火を付けた後に川を遡ってランニング・ウォーター集落も燃やしたが、住民はとっくに逃げおおせていた。2つの町の住人の多くはウィルスタウンでスティックボールをやっていたために、被害は比較的少なかった。 2つの集落の破壊の他に4月にはボブ・ベンジが死んでおり、また北部では、8月にフォールン・ティンバーズの戦いで"マッド・アンソニー"ウェイン将軍にインディアン同盟軍が敗れていた。さらにスペインがヨーロッパでのナポレオンに対応するために、チカマウガを支援できなくなっていた。ワッツは戦いを終わらせるしかないと確信した。1ヵ月後のテリコ・ブロックハウス条約で、戦争は終結したが、条約では新たな土地の割譲がなかったことは注目すべきことであった。チカマウガとローワーのチェロキー族はホルストン条約を認めさせられ、19世紀まで休戦が続くことになった。ただし、ダブルヘッドがセビアの基地に最後の攻撃を仕掛け、14名を殺した。この時、他の者はフィラデルフィアで条約に調印していた。 独立戦争前にイギリス軍と同盟してチェロキー族が戦った2年間を含めると、チカマウガ戦争はほぼ20年間続いたことになり、インディアンとアメリカの間の戦争では最も期間の長いものに属しているが、しばしば見過ごされるのが、その長さ、当時としての重要性、および後のインディアン指導者達に与えた影響である。チェロキー族は1758年に始まった戦争に少数ながらも関わっていたので、40年間近くという見方もできる。独立戦争に続く敵意が継続したために、2つの恒久的な防衛拠点が置かれた。1つはホルストンのサウスウエスト・ポイント砦であり、もう1つはピット砦であった。過小評価してはならないのは、ドラッギング・カヌーの指導者としてまた外貨預金 としての能力である。今日でもアメリカ人とインディアンの戦闘について、ドラッギング・カヌーのことを扱った文献は少ない。 休戦条約に続いて、主要なチェロキー族とチカマウガのチェロキー族には特に区別が無くなった。実際にはチカマウガの指導者が民族の問題については主導的となった。チェロキー族全体の民族政府が組織化され、ドラッギング・カヌーのもとで戦士として活動した3人の大酋長、リトル・ターキー、ブラック・フォックスおよびパスキラーが政務を執り、2人の議長ダブルヘッドとタートル・アットホームが就任した。 元チカマウガの戦士達の多くはチカマウガの元の集落に戻った。しかし、元チカマウガの大多数はウィルスタウンに中心がある1794年の集落に留まった。元の戦士達は文化変容、アメリカ人の言う「文明化」の強い主唱者となった。ノースカロライナ西部に残ったチェロキー族は、伝統的な様式を守り、多くは純血のままであった。 1795年8月、ウェイン将軍がオハイオ領土に留まっていたチェロキー族の指導者ロングヘアに伝言を送り、フォールン・ティンバーズで敗れた北部インディアン同盟の部族と同様に休戦すべきことを伝えた。これに対する回答で、ロングヘアは収穫が終われば南に帰ると伝えた。しかし、全員が退去したわけではなく、少なくともシュー・ブーツという名のインディアンが1803年までそこに留まっていた。 1809年頃、モホーク族の酋長ジョン・ノートンがチカマウガを訪れた時、元チカマウガの投資信託 はチェロキー族の中でも最も文明化された者となっていた。例えばジェイムズ・バンは100名以上の奴隷を使うプランテーションの所有者であり、ミシシッピ川の東では富裕な層の者となっていた。ノートンはタートル・アットホームと親しくなり、いわゆる「チカマウガ」が特別の民では無かったと知らされた。タートル・アットホーム自身はナッシュビルとアセンズの間の連邦道路で渡し舟を所有しており、テネシー川を下るだけでなく北へも行く先が広がっていた。 チェロキー族に、ミシシッピ川を越えて西方への移住の圧力が高まり始めると、元チカマウガ・チェロキー族の指導者達が陣頭指揮を執り、以前にザ・ボウルが辿った道を行くことになった。アッパー・チェロキーは初め反対していたが、メイジャー・リッジなどの主導で従うことになり、1835年のニュー・エコタ条約、1838年の移住(涙の道を参照)となった。 テカムセは、1811年の戦いを始める前に、南部に戻ってきて、チカソー族、チョクトー族、マスコギー族およびチェロキー族の支援を得て、昔のように同盟を作りアメリカ人を追い出そうと考えた。テカムセは一部の例外を除いてほとんど支援を得られず、チェロキー族の代表からは強い反対を受けた。しかし、テカムセが南部にいる間、47名のチェロキー族と19名のチョクトー族が熱心にその護衛を務めた。 テカムセの来訪は、元チカマウガの住人で預言者のツァリによる宗教復活に火を付けた。いわゆる「チェロキー・ゴースト・ダンス」運動である。ウスタナリ集落でツァリが開いた民族集会では多くの指導者が心を動かされた。しかし、メイジャー・リッジが雄弁に反論してテカムセとの同盟よりもアメリカ側に付くことになった。その結果アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ軍に500名以上のチェロキー族戦士が志願兵として参加し、クリーク戦争でレッド・スティックスの指揮する元マスコギー族の一派を破った。 1794年の条約以降、東テネシーでは活動的なチェロキー戦士は見られず、南北戦争の時になってウィリアム・ホランド・トーマスが南軍側でチェロキー・インディアン部隊を率いた。