気配表示
南部インディアン、特にチカマウガと関わりを持った交易業者やイギリス政府の代理人はスコットランド人、特にスコットランド高地の出身の者が多かった。これらの多くがインディアンと婚姻関係を結び、その居留地に留まり、子孫が重要な指導者となった。上記にも挙げたアレクサンダー・キャメロン、ジョン・マクドナルド、ジェイムズ・バン、ダニエル・ロスの他にも数多くの著名な者が出た。 対照的に、チカマウガが反抗した開拓者達の大部分は、スコットランド人の子孫でアルスター出身のアイルランド人、スコッツ=アイリッシュであった。これらの人々がアメリカ独立戦争では王党派となり、イングランドから来た者がアメリカ側に付いたのは歴史の皮肉である。 歴史家のムーニーによれば、チカマウガ(チェロキー語の発音でチカマギ)という言葉は少なくとも2箇所の場所の名前である。チャタフーチー川の水源とチャタヌーガ近くの地域である。しかしこの言葉はチェロキー語ではない。チカマウガはおそらくショーニー語から派生し、ノースカロライナの海岸にあった小さな集落チカマコミコ(大海の側の居留地という意味)とメリーランド州に同じ名前の川があった。この2つの地域は元々ショーニー族のようなアルゴンキン語族の民族が住んでいた。また歴史家のブラウンは、チカマウガはマスコギー語のチュッコマコ(戦いに酋長が住むところの意味)から来ているとした。また、エバンスは「この名前はチェロキー族がマスコギー語の「チアハオラミコ」(アッパー酋長の住居)を発音しようとしてできたものである」としている。 テネシー州のチャタヌーガ市の他にオハイオ州マーサー郡にもチャタヌーガ地域社会がある。チャタヌーガはマスコギー語でルックアウト の意味である。オクラホマ州の元チェロキー族居留地にもチャタヌーガという町がある。 ジョン・ミルトン・チヴィントン (John Milton Chivington, 1821年1月27日?1892年10月4日)は、南北戦争のニューメキシコ戦役とコロラド戦争での活躍で知られる19世紀のアメリカ合衆国陸軍士官。彼は1862年のグロリエタの戦いの英雄として称えられ、後に1864年のサンドクリークの虐殺での彼の役割は悪名高いものになった。 チヴィントンはオハイオ州レバノン(w:Lebanon, Ohio)に生まれた。メソジスト教会で洗礼を受けたチヴィントンは聖職者になることに決めて、1844年に聖職に定められた。1853年、彼はカンザス州の先住民のワイアンドット族の伝道のため、メソジスト伝道遠征隊に参加した。 1856年、奴隷制度に対する率直な憎しみのために、チヴィントンは彼の集会で奴隷制を支持しているメンバーから脅迫状を受け取った。この結果、メソジスト教会はチヴィントンをネブラスカ州オマハの教区に移した。1860年、 チヴィントンは彼の家族とともにコロラド州デンバーへ移動し、メソジスト教会ロッキー山脈地区で、年長の議長として活動した。 翌年戦争が勃発したとき、コロラド準州知事のウィリアム・ギルピン(w:William Gilpin (governor))は牧師としての権限を彼に提供したが、チヴィントンはこれを拒否し、戦争に参加したいことを告げた。こうして、彼はジョン・P・スロウ(w:John P. Slough)大佐率いる第1コロラド志願兵(w:1st Colorado Volunteers)の少佐となった。ヘンリー・ホプキンス・シブレーによるニューメキシコ準州でのテキサスの攻勢の間、1862年3月26日にチヴィントンはアパッチ峡谷に418名の強固な分遣隊を率いて、そこで彼らはチャールズ・L・パイロン少将指揮下の300名のテキサス軍を驚かせた。驚いたテキサス軍は4名が殺され、20名が負傷し、75名が捕らえられた。一方でチヴィントンの兵士は5名死亡、14名が負傷した。この小さな勝利はスロウの軍隊の士気を高めた。3月28日、スロウはチヴィントンと彼の400名の兵士を、いったんスロウの本隊によるグロリエタ峠の前線での攻撃に従事した後、個人向け国債 する命令によってシブレーを攻撃するために派遣した。チヴィントンは峠の上に陣取ったが、スロウまたはシブレーが到着するのを無駄に待つことになった。彼らが待っている間、数名の偵察が、シブレーの貨物の積まれた供給列車がジョンソンズ牧場の近くにあることを報告した。チヴィントンの指令によって部隊はスロープを滑降し、疑いようの無い供給列車に忍び寄った。彼らは隠れて1時間待ち、そして攻撃して、誰も殺されたり負傷したりすることなく連合国軍の小規模な警備隊を捕らえて撤退した。その間、グロリエタの戦いはピジョンズ牧場で展開していた。チヴィントンは急いで後退しているのが見て取れたスロウの本隊に戻った。連合国軍はグロリエタの戦いで勝利した。しかしながら、チヴィントンのおかげで、彼らにはさらに前進するための供給物資が全くなく、やむを得ず後退した。チヴィントンは戦いの結果を完全に覆し、そして、シブリーの部下がテキサスに向かって戻って、二度とニューメキシコを脅かさなかった。 彼の南部同盟の供給列車の発見は純粋にアクシデントだったが、当然チヴィントンはジョンソンズ牧場の彼の決定的な攻撃でかなりの称賛を得た。また、彼が、砲火がピジョンズ牧場から来るのを聞いてすぐにチヴィントンがスロウの軍隊を強化するために急いで帰ったなら、彼の400人の余分な兵士によって北軍が戦いに勝ったかもしれないと示唆された。チヴィントンは、誰も実際に殺されたり負傷したり事件で、南北戦争のマイナーな軍事の英雄になったという点で珍しかった。彼は1862年4月に第1コロラド志願兵騎馬隊連隊の大佐に任命された。しかしながら、チヴィントンのより暗い側面は、捕らわれているた南部同盟の牧師の苦情により明らかにされている。その資産運用 は、ジョンソンズ牧場で捕らえた囚人を殺すとチヴィントンに脅かされたと書いた。1862年11月に、彼は志願兵部隊の准将に任命されたが、役職は1863年2月に解かれた。 1864年11月、アラパホ族を含むシャイアン族の一団を、アーカンソー川沿いの彼らの保留地から、インディアン準州(現在のオクラホマ州)の新しい保留地へ強制移住させるため、チヴィントンは監督官として第一コロラド騎馬隊を率い、ベントズ・フォートからコロラド南東部に入った。この際、サンドクリーク沿いに野営した彼ら非武装のインディアンに対してチヴィントンの部隊が行った野蛮な攻撃「サンドクリークの虐殺」のために、この遠征の間の出来事は現在まで論議を残している。 サンドクリークでの、無抵抗なシャイアン族の一団のキャンプを攻撃するという、チヴィントンの命令に対し、 達が従った中、将校のひとりサイラス・スーレはこれに抗い、シャイアン族が友好的であるとして、部下に火器の使用をしないようipo した。しかしチヴィントンの軍は、キャンプの女子供に対して虐殺を実行した。 この虐殺に対し、彼らの本陣のある西部のコロラドのデンバーでは、記念行進が行われ、一般大衆や新聞は「南北戦争以来の栄光」として賞賛した。が、スーレの告発によってその内容が明らかになると、東部社会に一大スキャンダルを巻き起こすこととなった。 チヴィントンは、彼の軍が交戦したのは「敵対的なインディアンたち」であり、何名かの兵士(実際はほとんどの兵士)が記念品としてインディアンの身体の一部(男女の生殖器や頭の皮)を切り取った行為は、単にその勝利を祝ったものだった、と証言した。 しかしスーレと彼の部下の証言によって、事件の調査が行われ、陸軍の軍法会議では、チヴィントンの行動が違反行為という結論が下された。 スーレ達はチヴィントンに不利な証言をしたため、チヴィントンはスーレを偽証者と糾弾し、後にスーレはサンドクリークの虐殺に加わったチヴィントンの部下の兵士によって殺害された。一部では、この殺害にチヴィントンが関わったと信じられている。 この虐殺におけるチヴィントンの行動は非難されたが、彼はすでに陸軍を去っており、一般的な南北戦争後の恩赦制度では、彼の刑事責任を問うことができなかった。しかし陸軍裁判官は、サンドクリークが「恥と憤りですべてのアメリカ人の顔を覆うことができるくらいの冷血な虐殺」であったと公言した。 死体の切断を含む虐殺の野蛮さに対して「東部」大衆の憤りは激しく、それは後に中西部のインディアンとの全面戦争の考えを拒絶するよう米国議会に申し入れるほどのものであった。 ただ、彼らの主張は、インディアン達に「保留地」を与え、年金手当てなどをきちんとすればこんな問題はなくなるはずだ、という、インディアンにすれば非現実的なものであった。 1866年12月21日、フェッターマン大尉達が無謀にもシャイアン族とスー族の連合軍を挑発し、全滅の憂き目に会ったとき、シャイアン族は、フェッターマン達に対して、チビントンの行為のお返しをした。つまり、彼らの身体をずたずたに切り裂いたのである。