- 限月
- 罰せられることはなかったが、チヴィントンはコロラド民兵を辞職させられた。大衆の激しい憤りは、彼を政治から引き下がらせ、州制へ向けたコロラドの運動に彼は加われなかった。1865年、彼はネブラスカに戻って、貨物運送業になったが不首尾に終わった。 カリフォルニアに少し住んだ後に、チヴィントンはオハイオに戻り農業をし、後に地方紙の編集者になった。1883年、彼はオハイオ立法府で選挙運動をしたが、彼の相手がサンドクリーク大虐殺に注意を向けたので、やむを得ず引き下がった。彼はデンバーに戻り、1892年に癌で死ぬすぐ前で、執行官代理として働いた。 チヴィントンは最期まで、「サンドクリークの虐殺」は首尾よく行われた任務であり、遠征自体がインディアンによる一連の白人に対する襲撃に対抗したものだったと主張した。しかし彼は、「サンドクリークの虐殺」がシャイアン族、アラパホ族、スー族を怒らせ、さらに白人への襲撃を増加させ多くの人々が殺されという事実を都合よく無視している。 1887年、先物取引 の鉄道町として、虐殺のあった場所にかなり近いところにコロラド州チヴィントンの町が設立され、ジョン・チヴィントンにちなんで名付けられた。その町は、1920年代と1930年代のダストボウルの間、いくつかの建物がまだ残っていたが、やがて無人となり見捨てられた。 テカムセ(Tecumseh / Tecumtha / Tekamthi, 1768年? - 1813年10月5日)は、アメリカ先住民(アメリカンインディアン)のショーニー族の酋長で、白人への抵抗運動のシンボル的人物。カナ表記は一定せず、テクムセ、テコムサ、ティカムセ、テクムセー、ティカムサなど。 弟のテンスクヮクヮ(Tenskwatawa)と共に、西部の諸部族を連合させ、白人と戦った。テカムセの戦いはテカムセの戦争と呼ばれる。 1768年頃にオハイオ州中部のマッド川沿いの、オールドピカの町で生まれた。テカムセは、ショーニー語で「待ち伏せしているヒョウ」を意味する言葉が英語化された呼称である。 1811年、ティピカヌーの戦い(Battle of Tippecanoe)で、ウィリアム・ハリソン率いる政府軍に敗れ、当時イギリスの植民地だったカナダに逃れた。 これがきっかけの1つとなり、1812年には米英戦争が先物取引 。テカムセはイギリス軍と共にデトロイトを攻略などした。しかし、オリヴァー・ハザード・ペリー率いるアメリカ軍がエリー湖の戦いで勝利すると、イギリス側は補給線を絶たれ、苦戦を余儀なくされた。さらに、イギリス軍の司令官が戦死し、テカムセに協力的でないヘンリー・プロクター(Henry Procter)が後任となった。 テカムセとイギリス軍は、1813年にはテムズの戦いでアメリカ軍に敗れた。その後まもなく、テカムセはリチャード・メンター・ジョンソン(後の副大統領)に殺され、テカムセ戦争は終わった。 テカムセの戦争(−のせんそう、英:Tecumseh's War、またはTecumseh's Rebellion)は、アメリカ合衆国北西部領土で、アメリカ合衆国軍とショーニー族酋長のテカムセに率いられたアメリカ州の先住民族(インディアン)の同盟との間で戦われた戦争である。この戦争は1811年のティッペカヌーの戦いでアメリカ軍のウィリアム・ヘンリー・ハリソンの勝利で終わったと考えられがちであるが、米英戦争の時 (1812-1815)までテカムセの反抗は継続したので、米英戦争の一部とも見なされている。 この戦争の2人の主たる敵対者、テカムセとウィリアム・ヘンリー・ハリソンは、1794年に北西インディアン戦争の終わりとなったフォールン・ティンバーズの戦いにまだ若い兵士・戦士として参加していた。テカムセは、北西インディアン戦争を終結させ、ショーニー族や他のアメリカ・インディアンが住んでいた今日のオハイオ州の大部分をアメリカ合衆国に割譲することになったグリーンビル条約に署名することを拒否していた。しかし、その地域の多くのインディアン指導者は条約を受け入れ、それに続く10年間はインディアン種族を統合したアメリカの支配権に対する反抗が影を潜めたままだった。 グリーンビル条約の後、オハイオのショーニー族の大半はオーグレーズ川ワパコネタにあるショーニー族集落に定住し、条約に調印した大酋長ブラック・フーフに率いられていた。北西インディアン戦争に参加したマイアミ族のリトルタートルも条約に調印し、イール川の彼の集落に住んでいた。ブラック・フーフとリトルタートルの二人とも、合衆国の文化を取り入れ順応しようとしていた。 ここで、テカムセの弟、預言者日経225 に導かれた先住民の移民排斥主義的宗教の復活の動きが1805年に始まり、白人社会への順応を進める酋長達の影響力に脅しをかけた。テンスカタワはインディアンに白人のやり方を拒絶させ、合衆国に対するさらなる土地の割譲を止めた。合衆国と協力して行く方向に傾いていた多くのインディアンが魔道士として告発され、何人かはテンスカタワの追随者に処刑された。ブラック・フーフも魔道士狩りで告発されたが危害は加えられなかった。テンスカタワはグリーンビルの彼の集落からブラック・フーフの合衆国との友好関係の体面を傷つけることもした。 1808年までに白人とワパコネタのショーニー族との間の緊張関係が募り、テカムセとテンスカタワは集落を立ち退き、さらに北西に行ってワバシュ川とティッペカヌー川が合流するところの近くにプロフェッツタウンの集落を作った。リトルタートルはこの兄弟に歓迎できないことを伝えたが警告は無視された。テンスカタワの宗教的な教えは広く知られることになり、多くのインディアン種族から追随者を引き付けた。その種族はショーニー族、カナダのイロコイ族、チカマウガ族、フォックス族、マイアミ族、ミンゴ族、オジブワ族、オタワ族、キカプー族、デラウェア族、マスクーテン族、ポタワトミ族、ソーク族およびワイアンドット族であった。テカムセはこれら種族同盟の指導者として表に出たが、宗教的な訴えによってその基礎を築いたのは弟の方だった。 ウィリアム・ハリソン一方1800年に、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、ビンセンズにその政庁を置いた。ハリソンはアメリカの拡張のためにインディアンの土地に対する所有権を確保しようとした。特にハリソンはインディアナが州に昇格するために必要なだけの白人の入植者を引き付けようと期待した。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていた。この条約では、リトルタートルや他の種族指導者が300万エーカー (約 12,000 km2) の土地を合衆国に売却した。[1] テカムセはウェイン砦の条約のことを聞いて激怒し、その後は傑出した政治的指導者としてFX 初心者 を現した。テカムセは何年も前にショーニー族の指導者ブルージャケットやモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントが提唱した考え方を復活させた。その考え方とは、アメリカ・インディアンの土地はあらゆる種族共通の持ち物であり、全種族の了解無しに土地を売却してはならないということだった。合衆国と直接対峙する時ではなかったので、テカムセの最初の主要な敵対者は合衆国との条約に署名したインディアンの指導者であり、彼ら全てを殺してしまうと脅した。テカムセは広く歩き回り、戦士たちに順応主義者の酋長を捨てて、プロフェッツタウンの反抗に加わるように扇動した。テカムセはウェイン砦の条約が不法だと主張した。テカムセはハリソンに条約の無効化を要求し、アメリカ人は条約で売却された土地の開拓を進めてはならないと警告した。 1811年8月、テカムセはハリソンとビンセンズで会い、ショーニー族の兄弟は合衆国との和平を保つ意図があることを保証した。テカムセはその後、南部に旅していわゆる「文明化五部族」の中で同盟者を募った。南部の種族の大半はテカムセの申し出を拒絶したが、後にレッド・スティックスとして知られるようになるクリーク族の1派だけが、テカムセの武器を取って立ち上がると言う要求に応えた。レッド・スティックスは米英戦争の一部となったクリーク戦争を戦った。 テカムセが南部にいる間に、ハリソン知事は1,000名以上の部隊を引き連れ、ビンセンズからワバシュ川を遡ってテンスカタワとその追随者を脅そうとした。ハリソン隊は途中で今日のテレホート近くにハリソン砦を造った。ハリソン砦にいる間に、陸軍長官のウィリアム・ユースティスからの命令が届き、もし必要ならばプロフェッツタウンにインディアン達を追い払うために武力を行使しても良いと言うことだった。1811年11月6日遅くにハリソン隊がプロフェッツタウンの外に到着した時、一人の若いインディアンが白旗を振りながら馬で町の外に現れた。そのインディアンは、和平のための会合をもつために翌日まで戦闘をしないことを要求するテンスカタワの伝言を伝えた。ハリソンは同意したが、テンスカタワの提案を疑い、夜通し歩哨を立てていた。テンスカタワは恐らくハリソンが集落を襲おうと考えていると思い、先制攻撃を撃つ賭けに出ることを決め、約500名の戦士をアメリカ軍の宿営地に向かわせた。 どのようにしてその戦闘が始まったのか現存する資料では正確なところが不明であるが、ハリソンの立てた歩哨が11月7日の夜明け前に進軍してくるインディアン戦士に遭遇した。ハリソンの兵士たちが銃声を聞いて目覚めた時、すでにインディアンに囲まれかけていることが分かった。激しい戦闘が起こり、インディアン戦士がハリソン隊の防衛線を突き破り宿営地の中まで入って来た。歩哨たちが宿営地に逃げ帰ってくると、兵士達は直ぐに自発的に集団を作り、防衛線を確保しながら反撃を開始した。この日の朝の間、ハリソン隊は何度も攻撃を跳ね返し、遂にインディアン戦士は撤退した。ハリソン隊は68名が戦死または瀕死の重傷となり、また約120名が負傷した。インディアンの被害は諸説あるが、歴史家の推測では50名以上が戦死し、70ないし80名が負傷した。[2] テカムセが直ぐにも援軍を連れて帰ってくることを恐れたハリソンはその陣地の防御を固めることを命じた。翌11月8日、ハリソンが少数の兵士にインディアン集落を偵察に行かせると、集落はもぬけの殻だった。インディアンは夜の間に村から抜け出していた。勝ち誇ったアメリカ軍は集落を焼き払いビンセンズに戻った。ハリソン軍の方が損害の大きい戦いではあったが、結果をみればハリソン軍の勝利という解釈がなされた。